用強美

田邊朔郎の「とんねる」を読んでいると、洞門は「あまり飾はいらないが場所によっては相当に立派にしたものもある」とある。特に運河トンネルでは半分以下が水没し、そのままでは見える部分の形がバランス悪くなるので、入口の少しをトンネルの高さを高くするところもある、という。


3月中旬まで、琵琶湖第一疏水は浚渫のため停水中ですが、おかげで光が抜けやすく、第二トンネル東口から入口少し背が高くなっているのが分かりやすい。今の姿が美しいのではなく、運河に水が流れた状態で最もバランス良く設計されているのです。これぞ用強美が兼ね備えられた事例です。


第三トンネル東口洞門は「とんねる」にも掲載されていました。停水状態の今の写真と比較すると、田邊朔郎が意図した用強美がよく分かります。

戦時中の橋梁研究

ここ数年調べていた第二次世界大戦下の橋梁開発研究が土木学会論文集D2(土木史)に掲載されました。

詳細は論文を参照いただくとして、ここでは調べるきっかけをメモしておきます。設計想定と異なる作用(この場合、空爆)を踏まえた新しい橋梁形式開発が検討されていたことを、(趣味の)戦前からの雑誌「道路」を読んでいた時に見つけました。それは田中豊による論文。田中豊というと、関東大震災からの復興橋梁(永代橋など)を担当し、その後、東大土木の橋梁研教授として活躍された権威であり、現在もその名は、我が国の橋梁に関する最高の賞と認められている土木学会田中賞として残っています。その田中豊が空爆による橋梁の命中率や、その対策について議論していることを、(当時の世相を考えると当たり前ですが)知らなかったことがきっかけです。東大橋梁研を継承された伊藤学先生、藤野陽三先生に尋ねましたが、田中先生がそのような研究をされていたことはご存知ないとのことでした。明治以降、国を豊かにする基盤を整備してきた土木を教えているのに、昭和のことを知らないのは恥ずかしい。それが調べはじめた動機です。しかも想定と異なる作用、というと地震も同じような状況ですから、橋梁耐震の研究にもつながると思ったので。

調べるうちに、田中豊を離れ、京都帝大の高橋逸夫、北海道帝大の鷹部屋福平、九州帝大の三瀬幸三郎と当時の橋梁の権威がみな関わっていたこと。そして、そういう困難な状況にあっても「橋梁美」を常に語っていたことを知ったことは、耐震が構造を醜くしていると呟いている私にとって、大きな力となっています。

ただ、学者が色々と研究しても、実際の社会で実現するのは技術者です。この研究の主役は、朝鮮総督府鉄道局の技術者であり、小田技師がその中核でした。第二次世界大戦の敗戦国である日本では、戦時中の情報の多くは破棄され、それを調べることすら難しいのに、その上朝鮮半島、しかも北朝鮮で多く建設された橋梁の研究の情報はほとんど残っていません。そんな中、藁をもすがる思いで尋ねたのが田邊(朔郎)家でした。田邊朔郎は京都帝大の大看板ですが、記録魔であり、多くの資料が残されています。ただ、調べたいのは朔郎ではなく、その息子の多聞です。文官でしたが、終戦時、朝鮮総督府鉄道局(交通局)釜山局長の地位にあり、関連して何か残っていないかと思ったのです。直接の情報はなかったものの、鉄道局同窓会誌などのプライベートの情報で多くのことを知ることができました。

様々な情報を紡ぎ、考証し、見過ごされていた貴重な技術研究を何とかまとめられたと思います。