日ノ岡峠の2つの修路碑

昨日は昼から東京だったので、10時ごろまで道路調査(散策)。明治、大正国道2号であり、昭和40年ごろまで国道1号だった京都府道143号。何より江戸と京都を結ぶ東海道ですね。京都への最後の難所が九条山の日ノ岡峠でした。

琵琶湖疏水インクラインがある蹴上から東に進むと、一気に歩行者がなくなりますが、空気感も一変します。往来の多い街道で大都市との境界は晒し首場であることも多いですが、京都七口でもある粟田口は処刑場がありました。それを供養するために、多くの慰霊碑が並んでいます。明智光秀もここで晒されていたらしい。峠の最高点あたりに旧東山ドライブウェイへ分岐する跨道橋がありますが、そのすぐ先に明治初めに日ノ岡峠を整備した証である修路碑が建てられています。

内容の詳細はこちらこちら。明治8年から2年をかけ、約6km(1里19町51間)を整備し、最高地点を約3m(1丈1尺)低くし、この難所を整備した、とあります。明治国道が規定されたのは明治9年ですから、まさに東海道から国道に切り替わるに当たり、ここを国道にふさわしい道に整備しようとしていたと考えるとグッときます。

日ノ岡峠を越えると、そこには京津国道改良工事竣工紀念碑があります。昭和6年から昭和8年にかけて、内務省大阪土木出張所京津国道改良事務所により整備され、道路拡幅や舗装が施工されました。そしてこの改良事務所が、今の国交省京都国道事務所のルーツとなります。京都の国道の基礎がまさにここにある、そして明治、昭和の日ノ岡峠整備の証しが少し離れて立っていることにグッときませんか。そして、今は国道ですらなくなり、国道時代の記憶が失われる中でも道は残り、私たちの生活を支えてくれていることに、土木の仕事の誇らしさを感じます。

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