今から25年前の1995年1月17日は、私が京大土木の耐震工学研究室の在籍していた大学院一回生の冬。一年前に橋梁の地震時性能に関する卒業論文を提出した耐震工学者の卵でした。激しい揺れで起こされ、テレビを付けるもほとんど情報がありません。その中で報道された震度分布を見ると、大阪などが震度4であった中、最大震度を示していたのが京都で震度5。京都大学がほぼ南端となる花折断層が動いたと思いました。
気がつくと、いつの間にか震度分布に神戸が追加されていて、震度6を示しています。混乱。動いたには花折断層ではない?明るくなるにつれ、神戸周辺で大火事が発生、建物の被害も出ているようだ、というニュースを見て研究室に向かい、まずは転倒防止対策をしていた本棚は無事。落ち着いてテレビを付けると目に飛び込んできたのが、高速道路高架橋の倒壊でした。絶句。でも、まだ他人事でした。
数日後、研究室の教授より、土木学会第二次調査団の手伝いをするように指示を受けました。誰でもよかったのでしょうが、卒論、修論〆切間際の四回生、M2は動けません。唯一の日本人のM1だった私が消去法的に選ばれたのでしょう。1月22日、倒壊した神戸の地に立ちました。そこから数日、鉄道被害調査チームの補助として現地調査。移動中、目の前の道にビルが横倒しになっている異常な光景。でも、改めて探しても、その写真が無いのです。撮っていない。フィルム時代で撮影枚数に制約があった時代。鉄道被害調査のためにフィルムを残しておこうと思ったのだと思いますが、恐れらくそれだけでは無い。異常ではあるけれども、神戸の街がどこもそういう状態だったので、あえて撮る、という行為に至らなかったのだと思います。
数日の調査を終え、京都駅に到着した途端、異様な光景に恐怖を感じました。どの建物も「壊れていない」という異様な光景。体がガタガタ震え、今まで如何に自分が異常な状態にいたかを自分ごととして認識した時でした。
あれから25年、当時所属していた研究室の教授として日本、世界の耐震工学をリードする立場にいます。耐震の特殊性、難しさを知っています。自分ごととして責任感も持っています。その上で目指すのは、地震国ならではの美しい構造物、善き社会です。きれいごとを言うな、甘ちゃん、と言われようとも。土木工学者ですから。