東京人にとって橋といえば日本橋かもしれないが、京都人にとって、また烏丸三条に生まれた私にとって、橋といえば三条大橋。
歴史
最初に橋が架けられた時期は室町時代.
天正期
1589(天正17)年,豊臣秀吉は増田長盛を奉行に命じ,方広寺大仏殿の造営を行った.それに際し,資材運搬のために三条・五条大橋の改築を行い,鴨川の浚渫も行い,全国制覇の達成を誇示した.この時,三条大橋は石柱の橋に改修された.竣工は1590(天正18)年.長さ61間,幅4間5寸.
この方広寺と三条・五条大橋築造には「江州,伊 ,和泉,津國並京廻石切共」があたっていることが『石工文書』に記載されている[山野2004].特に馬淵石工(琵琶湖東岸・近江八幡)は三条大橋の橋脚として用いられた石柱を作製したことが分かっている.
石柱は高さ十尺,径二尺三寸あり,「天正十七年七月吉日,津国御影」の銘あり.これは御影から持ってきたときの年号.
(1594(文禄3)年 石川五右衛門が三条川原で処刑)
江戸期
度々洪水により損壊し,架け替え時に橋の大きさが変化していることが,日本土木史[土木学会1936]の記述をもとに報告されている[田中1964]が,[島田1955]は尺度についての考えが足らなかったことによる誤りと指摘している.特に,橋の寸法について1間を6尺5寸か6尺かに着目しているので,下記には元記述を6.5尺として変換し,それを6尺間として換算しなおしたものも併記してみた(ただ,結果の解釈がまだ不明…).
元記述 | 6.5尺間 | 6尺間 | ||
1590(天正18)年 | 長さ61間,幅4間5寸 | 396.5尺 | 土木学会1936 | |
1667(寛文7)年 | 長さ64間4尺,幅3間5尺5寸 | 420尺 | 70間 | 「京三条大橋指図」島田1955 |
1676(延宝7)年 | 長さ57間2尺,幅3間5尺5寸 | 374.5尺 | 62間2尺5寸 | 「京三条大橋下敷石図」島田1955 |
1699(元禄12)年 | 長さ61間,幅3間 | 396.5尺 | 「京大絵図」土木学会1936 | |
1711(正徳元)年 | 長さ61間 | 396.5尺 | 「山城名跡志」土木学会1936 | |
1734(享保19)年 | 長さ37丈余 | 「山城志」土木学会1936 | ||
1738(元文3)年 | 長さ57間4尺5寸,幅3間4尺5寸 | 375尺 | 「川方勒書写本」土木学会1936 | |
1762(宝暦12)年 | 長さ67間2尺,幅4間1尺 | 437.5尺 | 「伊勢参宮細見」土木学会1936 | |
1779(安永8)年 | 長さ63間 | 409.5尺 | 「京細見図」土木学会1936 | |
1784(天明4)年 | 長さ37丈余 | 「京二重大全」土木学会1936 | ||
1811(文化8)年 | 長さ57間4尺5寸,幅3間5尺5寸 | 375尺 | 62間3尺 | 「京羽重大全」土木学会1936 |
- 1667(寛文7)年「京三条大橋指図」長さ64間4尺,幅3間5尺5寸
橋脚は円柱3本建で21組(計63本).梁を架けて行桁7本を通し橋台付間は2間2尺,ほかは3間.勾欄は擬宝珠付きで柱ま6間,長さ2間の袖を付けているから擬宝珠柱は両側ともで18本,1柱間の通栭(斗束)間7間,袖のところ2間に割り付けて込栭(嫁束)を入れないのが特色,地覆は斗束の下でくりあしを付けている.擬宝珠柱まが70尺もあるところを6本の斗束で公正された大きな木割が指図から窺える.橋下は橋脚のほぼに川床一面に敷石で固められ,川上へ10間,川下へは10間2尺7寸とあり,この先は6尺幅枠で,7尺・6尺の3行に川幅61間に組み,水落口の高さ3尺,底に幅8尺5寸の敷石をしいて賀茂川の清流を多岐に落としている.付紙より枠の損傷から相当の年月を経ていることが分かる. - 寛文末期「賀茂川筋絵図」賀茂川改修により両岸に石垣が築かれ,公儀石垣の一つが三条橋の両岸
- 1676(延宝4)年「京三条大橋伏地割」5月7日の構造被害により橋脚は18組(54本)に減じられている
- 1679(延宝7)年「京三条大橋下敷石図」長さ57間2尺,幅3間5尺5寸
敷石は川上へ3間半と東側の護岸に9間4尺突き出し,川下へは12間5尺,この先は2行の枠組みを5段に築いている. - 1686(貞享3)年「指図」敷石面積2130坪
- 1691(元禄4)年「角倉家記録 京之水」長さ57間4尺5寸,幅3間5尺5寸
- 1699(元禄12)年「京大絵図」長さ61間,幅3間
- 1711(正徳元)年「山城名跡志」長さ61間
- 1734(享保19)年「山城志」長さ37丈余
- 享保○年「法令雑録」長さ57間4尺5寸,幅3間4尺5寸
- 1738(元文3)年「川方勒書写本」長さ57間4尺5寸,幅3間4尺,敷石2030坪
- 1745(延享2)年「京羽二重」長さ37丈余
- 1762(宝暦12)年「伊勢参宮細見」長さ67間2尺,幅4間1尺
- 1779(安永8)年「京細見図」長さ63間
- 1784(天明4)年「京二重大全」長さ37丈余
- 寛政○年「寛政度調書・上京古町記録写本」長さ61間7分,幅4間1尺7寸
- 1811(文化8)年「京羽重大全」長さ57間4尺5寸,幅3間5尺5寸
- 1853(嘉永6)年「三条大橋下敷石橋杭石流出絵図」橋杭54本のうち16本までが角柱にかえられ,外から見えない中央の列に立てられる.川床の敷石は,川上へ3間と両側の護岸に10間ずつ突き出し,橋下4間,川下22間とある.
- 1863(文久3)年「京羽津根」長さ57間4尺5寸,幅3間5尺5寸
(1868(慶応4)年 近藤勇 三条川原晒し首)
明治期
1881(明治14)年に改造.長さ56間,幅4間7分(明治18,27年京都府調)
1896(明治29)年に橋桁より上は全部改築,長さ55間3分5厘,幅外法4間5厘,内法3間8分[岩井1911].
明治41年の記事では,石柱60数本のうち,両側が円,中が角,とある.
明治44年の論文[岩井1911]には,「3本列び(両側は円柱,中央が方柱)16行,都合48本であり,その各柱は中程で継いである.橋下の川底には石が敷き詰めてある.天正17年の刻銘のある柱石はわずかに数本(五条橋には刻銘のあるものが比較的多く残存)」とある.
大正期
1912(明治45)年3月に道路拡築のため改築.1912(大正元)年10月に竣工.長さ55間2分,幅9間,橋面積512坪2合.
この際,橋脚として用いられていた天正期の石柱は全て取り替えられた.旧三条大橋の石柱は,京都市内の庭園に散在している(小川治兵衛が関わる).
昭和期
1928(昭和3)年大礼の記念奉祝として,高山彦九郎銅像設置(台石に東郷平八郎の揮毫).戦時中供出されたが,再建された.
勾欄(高欄)構造
木製勾欄の構造については,京都市の三条大橋のページが分かりやすい.
擬宝珠
天正18年
勾欄に18個設置(橋上の勾欄には高さ2尺8寸5分,下部の周囲4尺4寸5分,宝珠のくびれ部周囲2尺が14個,袖勾欄には少し小さく高さ2尺4寸7分が4個)[岩井1911].昭和10年鴨川洪水により4個流出し,現在14個が残っている.
銘文
洛陽三條 之橋至後/代化度往 還人盤石/之礎入地 五尋切石/之柱六十 三本蓋於/日或石柱 橋湛觴乎/天正十八年庚寅 正月日/豊臣初之 御代奉/增田右衛門尉/長盛造之
意訳「洛陽三条の橋は後代まで往還する人々の助けとなる.しっかりとした基礎は地中に五尋(約9.1m),切石の柱は六十三本ある.まさに日本の石柱橋としては最初のものだろう.天正十八(1590)年庚寅正月の日に豊臣秀吉が世に初めて贈り,増田右門尉長盛がこれを造営した.」
バリエーションとして,「洛陽」を「雒陽」,「庚寅」を縦書/横書,「造之」を「造焉」としたものがある.
昭和25年追加分
昭和10年鴨川洪水で流出した擬宝珠は昭和24−25年の改築時に追加された.
銘文
三条大橋は明治/四十五年三條通/拡張のとき幅員/を倍加して一四/、五米に、橋長/は一〇一米に、/橋脚はコンクリ/ート造としたが/橋面は從来の風/格をもつ木造橋/であつた/
たま[踊り字]昭和十/年六月の洪水に/あい橋の一部と/擬宝珠一個を流/失 この水害に/鑑み鴨川を改修/し、河底を深く/したので、天正/以来の敷石、礎//石は取除かれた/、重ねて今回こ/の橋の修築に際/し、橋を鴨川と/疏水の二部に分/け、橋長は鴨川/部七四、〇三米/疏水部一六、九/七米、幅員はい/づれも一五、五/米とし、橋面構/造もコンクリー/ト床版としてか/けかえ、この擬/宝珠も新に追補/した/
昭和二十五年一月/京都市長/神戸正雄/
1935(昭和10)年 京都大水害で流出
6月28日から降り始めた雨は翌29日午後2時までの雨量は281mm。最終的に流出した橋梁は56で、そのうちの一つが三条大橋。
- 例えば、京都市消防局へのリンク
昭和の鴨川改修
昭和11年から22年にかけて鴨川の桂川合流地点から柊野堰堤までの約17.9kmと高野川の出町柳付近から約5.2kmについて抜本的な河川改修が行われた。全体的に深さ2〜3mほど掘削され、河川の断面が拡げられ、下流の一部区間は流れをなめらかにするため流路が付け替えられた。ただし、三条〜七条間は、京阪電車の地下化ができず暫定改修となった。
例えば、京都府「千年の都と鴨川治水」
注記
- 山野祥子:京都・三条大橋橋脚の築造と「馬淵石工」,立命館地理学,Vol.16, pp.133-141, 2004.
- 土木学会編:日本土木史, 1936.
- 田中緑紅:京都三名橋 三条大橋,緑紅叢書, Vol.46,1964.
- 岩井甍堂:京都の金石文(一),考古学雑誌, Vol.1, No.11, 1911.
- 島田武彦:近世の三条大橋,日本建築学会研究報告,pp.231-232, 1955.